Cafe Ligia-exotica / 純喫茶 船虫

よしなしごとを。読書とか映画とか観劇と港の街の話しとか

雑文

 ずいぶん昔の話だが、ある劇団の音響についたときの話。アクションシーンの音楽を決めようという時のことだ。演出さんから「この曲をかけてください」と言われて手渡されたディスクに入っていた曲は、まさにアクション、まるでRPGのラスボスを倒すような曲と言ったらよいだろうか。とにかくアクションの『お約束』のような曲であった。



 演出サイドで決まった曲なので、当然ながらこちらで選曲することもなく、そのアクションシーンではその曲を使う。『お約束』のアクションに、『お約束』の音楽、そうなると芝居の演出も当然ながらお約束である。



 別にそれがどうとかって事ではないのだが、『お約束シーン』に『お約束音楽』を選択した瞬間に、『お約束演出』以外の選択を放棄したことと基本的にほぼ同じだと思う。



 アクションシーンには「アクションシーンらしいBGM」という固定観念でしか発想できないと、観客が発想するものも、結局は「いわゆるアクションシーン」しか発想できなくなってしまう。『お約束』というボールを投げると、観る側も『お約束』としか受け取って観ることは出来ない。



 感情をコントロールしようと意識した選曲でのBGMの力ってのはものすごく強くて、ものすごく簡単にそのシーンの感情的表現を色づけてしまい、他の感情や感想を一切排除してしまう。ものすごく単純である。
 悲しい気持ちにさせたい?演者にちょっと悲しい芝居をさせて『悲しいお約束』の曲をちょっと流す。それだけでもう悲しいシーンのできあがり。観客には「悲しい」という発想以外は一切させない。ものすごく単純。悲しい音楽を流すと、役者も悲しい芝居を始めるしね。そこに観客の想像力の入る隙は全くなくなってしまう。



 さて、このときのアクションのシーンは、前後のシーンのつながり等もあり、それほど『ラスボス倒すぜ!的お約束』シーンではないな、とか考えていて、事前に演出サイドにいくつか曲を提案して提出していた。選曲のポイントとしては、


1.格好良くアクションぽい


2.音楽にあまり物語性がない


3.観客に感情を押しつけすぎない


4.メジャーすぎる路線は避ける


5.尺が適度に長く編集しやすい



等のポイントで選曲していた。かなりがんばってディスクに2枚、20曲近くを提出したように記憶している。



アクションらしく、しかし演出プランが簡単に固まってしまわないように、そんなことを考えて選曲した。



まあ、結局採用されず、演出プランとしては『お約束』を選択したわけだが(まあ、動きとの兼ね合いとかも有ったろうが)。



 正直こちらサイドとしては何をどうしようと別にどうでもいいわけなんだが。



ただ、『観客は思考する』。それは、意識して思考や想像をしているわけではなくて、無意識のうちに、役者の演技、表情、動き、台詞の言い回し、照明の色、明るさ、音楽の速さ、明るさ(メジャー)や暗さ(マイナー)、それらを無意識に脳内でミックスし、そのシーンを脳内で作り上げていく。それは、演出サイドにとっては主観でも、観客サイドにとっては、とても客観で。別に演出が「楽しい」と意図したシーンでも、観客は「楽しくない」と思えばそれはその観客にとって「楽しくない」シーンで正解なのであって、「楽しいシーンだろ?なぜ楽しくないんだい?」と思うのは、単に演出サイドの思い込みでしかないわけで(もっとひどい言い方をすれば制作者サイドの思い上がりでしかないわけだ)。




 観客が10人いたら、(『お約束』のシーン以外)10人が10人とも違う感想を持つ。それが人間として正しい思考だと思うし、それが『演劇』というものだと思うし、それでこそ『生の舞台』だと思う。蛇足ではあるが、演技として伝えたいのなら、役者は伝わる熱さをもって演技しないと観客には伝わらないと思う(伝わらないものは自己満足でしかない。それで満足なら、それは自慰行為でしかない)。




 結局、そのアクションシーンは、その曲を流した瞬間に『今、まさにラスボスと戦わんとする伝説の勇者登場』的な空間が出来上がってしまった。あっけないものである。しかしながら演出がそれを意図してその曲を選んだというなら、それ自体は決して間違いではないということだ。それが演出意図ならば・・・。



 長々と書いたが、別に間違いも何もそこにはなくて。とりあえず人の意識は簡単に染まってしまうということ。リアルタイムで思考して、感じてという「隙」をシーンによってはおいておかなければならないのではないかという、それが『演劇空間』なんじゃないか、という・・・、どうにもまとまりのない話であった。




以上