Cafe Ligia-exotica / 純喫茶 船虫

よしなしごとを。読書とか映画とか観劇と港の街の話しとか

『逃げる』

 過日の夜、家路へと向かうために某ローカル線の無人駅へと向かった。時刻はそれほど遅い時刻ではなかったが、何せローカル線。次の上り列車は最終だ。逃せばこの田舎から何か別の交通手段で帰宅することを考えるか、宿を探すしかない。


 駅に辿り着いたときには、上り列車の到着まで、まだ25分くらいある状態であった。道々買ってきたペットボトルのお茶でも飲みつつ、待合室でゆっくり待とうと思った。


 待合室には先客がいた。35,6才であろうか。無精ひげの男であった。右手に缶コーヒー、左手に火のついたタバコを持ってうつろに空間を見つめていた。ふと、男の手荷物に目がいった。真新しいABCマートの四角いビニール袋。きっと買ったばかりの靴でも入っているのだろう。こんな田舎町でも近くにABCマートがあるのかなとかって思考が瞬間頭をよぎったが、すぐに最終列車のことに思考は移っていった。

 待合室は広くない。男の吸うタバコの煙が気になったが、とりあえず男から少し距離をおいたところのベンチに座り、ペットボトルのお茶をちびちびやりながら携帯電話をもてあそびながら時間をつぶすことにした。



 『ガーン!』。突然男が乱暴に缶コーヒーをベンチに置いた。
かなり驚いたが無視することにした。見たりしたら何があるか分からない。何もなかったような顔をしてお茶をくぴくぴと飲み続けた。


 一服二服とタバコを吸った後、突然男は立ち上がって近くにあった飲料の自動販売機を蹴り始めた!

『ドカッ!』『ドカッ!』『ドカッ!』『ドカッ!!』

男は何度も何度も自動販売機を蹴り続ける!やばい!さすがにやばすぎる!自動販売機に続いて、隣に置いてあった空き缶入れを蹴り始め、2,3回で蹴り倒してしまった。待合室の中に空き缶や空きペットボトルが数個転がる(幸い大した数の空き缶は入っていなかったようだ)・・。


 どうしよう?どうやらかなりイっちゃってる人らしい!!普通の駅なら駅員に通報したりするところだが、ここはローカル線の無人駅。頼れるものは誰もいない・・・。すっかり空となったお茶のペットボトルを握りしめて、瞬時に色々と考える。その間も男は自販機を蹴り飛ばしたり、うろうろしたりしている・・。その感情の矛先がいつこちらに向くかも知れないのだ。

 ・・・とにかく刺激したり、相手の注意がこちらに向いたりしてはいけない。同じ待合室にいるのは当たり前だが極めて危険だ。出来るだけさりげなく、さりげなく、待合室を出てホームの端まで逃げることにした。

 脱出成功・・?まだ待合室からは何回か自動販売機を蹴る音が聞こえてきたが、やがて静かになった。とりあえずホームの端で出来るだけ気配を消して離れた待合室の様子をうかがっていた。5分、10分・・・。ひたすら暗がりの中で待ち続けた・・。


 やがて列車が近づいてくる音が。上り列車よりも早くに下り列車が到着したのだ。ここから下りの終着駅まではあと二駅。都会から仕事を終えたサラリーマンが田舎の自宅へ帰るためにこのローカル線を利用しているのだ。そこそこ車内には人が多いようだ。ふと、待合室から人影が!あの男だ!下り列車に乗り込んでいく!やった!脅威は去った!終着駅へ向かうのだろうか?そんなことはどうでも良い。ひとまず安全になったことにほっとした。上り列車にはあと15分ほどこの駅で待たなければならない。安全に待てるに越したことはないのだ。


 待つこと15分強。上り列車が少し遅れてやってきた。いつの間にやらこの駅から上り列車に乗り込む人たちが3人ほど増えていた。この人達は待合室のひっくり返った空き缶入れを見てどう思っただろうか?
ぞろぞろと列車に乗り込み、一息ついて読みかけの小説を鞄から取り出して開いた。これからの帰路は長い。ゆっくり小説を読むことが出来るだろう・・。



 車内の乗客は3割くらいだろうか。この時間帯にしては結構お客が多い。着席後、ふと斜め向かいの男が荷物を座席に置いたまま、週刊の漫画雑誌をぺらぺらやっているのが視界の隅に入った。列車の蛍光灯の明かりでてらてらと光る手荷物は、真新しいABCマートのビニール袋・・・。さっきの男!!


 男は漫画をちゃんと読んでいるんだかいないんだか、やたらと速いペースでページを繰っていく。とりあえず見てはいけない、関わってはいけない・・・。開いた小説に目を落としながら必死でこの状況を考える。もちろん小説の内容なんか頭の中に入ってこない。

 どうやら男は下り列車に乗ったにもかかわらず、終着駅からそのまま折り返してきたらしい!そして何の因果か同じ車両に・・・。乗り合わせた人たちはこの男がイっちゃってる人であると言うことは知らないだろう。知っているのは自分のみだ・・・。
 どうしよう?ここは災難を避けて隣の車両へ移るか?一度席に着いたにもかかわらず改めて移動をする・・。不自然に映るだろうか?男を刺激しないだろうか?何にせよ隣の車両に移るには、男の前を通り過ぎなくてはならない。大したことではないはずなのに、妙にリスキーに感じる・・・。一駅・・、二駅・・。気配を消しつつ思案する・・。


 
 『バン!』大きな音が車両内に響いた!男が漫画雑誌を床に叩きつけたのだ!瞬間車内に張り詰めた空気が流れる・・・。他の乗客は何が起こったのか判らないだろう・・・。どうすればいい?


 そして4駅めに辿り着いた・・・。ここは私鉄との接続駅。大きく遠回りになるが、私鉄経由でも帰れないことはない。どうする?私鉄経由で帰ると、切符は新たに購入しないといけないし、到着時刻は本当に深夜になるだろう・・・。



 結局大幅なタイムロスを覚悟して私鉄に乗り換えた。逃げた。・・・ほっとした。
他の乗客がその後どんなことになったかまでは知ったことではない。さっきの状況で『この人イっちゃってる人です!皆さん注意して下さい!』と触れ回るわけにもいかない。そして、自分だけが感じている緊張感にも耐えられなかった・・。目の前に危険なものがあるのだ。判っている危険は誰もが避けるだろう・・。


 
 あの後、男はどうしただろうか?誰かに絡んでいったか?それとも、いきなりドアとかを蹴り出したりしたか?それとも、おとなしく自分が降りるべき駅まで乗っていたか・・・。


 形はどうあれ、他の乗客を見捨てたことになるのだろうか・・・。『蜘蛛の糸』なら真っ先に糸を切られてしまうのか・・・?願わくば、男には最後までおとなしく電車に乗っていて欲しいと思った。


 少しの間そんなことを考えていたが、すぐに読みかけであった小説に集中した。これから予定よりも大幅に長い時間をかけて列車に乗り続けなければならないのだ・・・。