Cafe Ligia-exotica / 純喫茶 船虫

よしなしごとを。読書とか映画とか観劇と港の街の話しとか

雑文的

 いらっしゃいませ。



 ・・・いや、休ませてくださいよお・・。





 『Swing Girls』という邦画がある。この映画が大変好きで、DVDで観ただけで、少なくとも5回は観ていると思う。

特に、ラストのライブシーンなんかは、その辺りだけ繰り返して何度も観た。


 実際、音楽(特に管楽器)をやっていた者からすると、ストーリー的にはあり得ない話で、突っ込みどころ満載なんだけれども、そんな小さな(?)突っ込みを、さらっと受け流すくらいの面白さをもった映画であると思う。
 要するに、学生だけの自主練習で、そこまで上手にならないだろうというのが一番大きな突っ込みどころであろうと思うのだが、そのあたりは、“音楽をやりたい!と思った少女達の初期衝動が奇跡を起こした”くらいに割り切ってみるべきところだ。 何より、それを受け入れるかどうかで観ている側のストーリーへの入り込み具合は大きく変わってくると思うし。
 確かにそこには“リアル”は無い。しかし、物語としての“リアリティ”は存在すると思う。空想が現実を上回る瞬間だ。それが“物語”というものではないかと思う。



 例えば、三浦しをん氏の小説、『風が強く吹いている』では、箱根駅伝に、メンバーのほとんどが素人という状態で、わずか10ヶ月の練習期間で出場しようとする物語である。

 現実ならこれは不可能。選考を決める走行会でもやっとのはずである。確かにそこに“リアル”は無い。しかし、確固たる文章が、このメンバー達ならいけそうだという“リアリティ”をもたせる。現実ではない、“物語”が感動を生む。


 『Swing Girls』もそれと同じで、あり得ないけれども、その“リアリティ”がラストのライブシーンの感動を生むのだ。この少女達ならこのくらいまできっと成長する、そう思わせる感じがある。きっと、純粋に“JAZZが(音楽が)やりたい!”という初期衝動をしっかり描ききったからなんだろうなと思ってみたり。



 しかしながら、一つだけ突っ込まざるを得ないシーンがある。

 上野樹里演じる主人公の友子が、バンドを結成したいがなかなかメンバーが集まらない状態で落ち込み、一人河原でテナーサックスで“A列車で行こう”をポフポフと演奏するシーンがあるのだが、演奏途中からバックにピアノの伴奏が聞こえてくることに気がつくのだ。

 不思議に思って探してみると、河の向こう岸にピアノで伴奏を入れてくれる拓雄(平岡祐太)の姿が。拓雄もビッグバンドを続けたいのだ。改めてバンドを組もうと決意する二人・・・。


 というシーンがあるのだが、このシーンにだけは突っ込みを入れたくて仕方がない。

 拓雄が持っているピアノはシンセ系のエレキピアノで(物語の早い段階で手に入れる)、どう考えても電源が無ければ動かない。拓雄は川のそばまでエレキピアノを担いでいって(そこまでは良い)、電源までどこからか引っ張って来たのか?そもそもそのエレピにスピーカーは内蔵されているのか?

 これはどうも“リアリティ”では処理しきれない問題だと思うのだが。



 自分ならこのシーンをどう処理するだろうとかって考えてみたんだけど・・・。・・シーンは生かしたい。しかしエレキピアノは無理がある。ならば、河原に捨てられているような、トイ・ピアノならどうだろうかと考えた。

(こういうノリ)



 うち捨てられたトイ・ピアノを見つけたときに、遠くからテナーサックスの“A列車で行こう”が聞こえてきて・・・、みたいなことならシーンは成立するかなとか思ってみたり。画的に可愛らしいし。



 まあ、こんな矛盾に突っ込んでいるようではダメって事なんだろうけど。


 とりあえず『Swing Girls』は名作。あと『風が強く吹いている』も名作。



 なんだかとりとめのない話。


 とりとめの無いまま終わる。