阪神大震災の時、自宅で寝ていた。後に知ったのだが、自宅近辺は震度7でとんでもない揺れであったが、実家はかろうじて半壊状態ですんだ。
何とか自宅で寝起き出来る状態であったが、瓦は全て落ち、壁はひびだらけ、ありとあらゆるガラス製品が割れて屋内でも靴を履いて移動しなければならない。棚という棚は倒れ、危うく祖母が下敷きになるところであった。
自室の棚も倒れ、芳香剤の瓶が砕けてものすごい匂いを発し、その液体が樹脂製のスピーカーのキャビネットを溶かした。
あらゆるライフラインが止まった。ガス、電気、水道、電話・・・。
夜が明けて、屋外へ出てみると、東の空がなんだか暗い。というか黒い。どこかで燃えているのだ。後で知ったのだが、実家から南東にあった古い商店街が、跡形もなく燃えて無くなっていた。
ガスが止まったので、煮炊きが全く出来ない。たまたま実家には七輪と練炭があったので、それで何とか湯を沸かすことが出来た。ストックがあって本当に運が良かった。
日が暮れると、あらゆる明かりが無い町は本当の暗闇になる。家の中も文字通り真っ暗だ。幸いというか何というか、仏壇のある家であったので、小さなロウソクの明かりで何とか暗闇に耐えることが出来た。
水道も止まっていたので、トイレも流せない。二、三日は、風呂の残り湯で流していたが、そんなものはすぐに尽きてしまう。ゴミを入れるポリバケツに、近所のどぶ川の水を汲んでお風呂に汲み置くことで耐えた。どぶ川があって良かった。
飲み水は、最初は近くの道路で水道管が破裂しているところがあったので、同じくポリバケツに汲んで置いて、練炭の火で沸騰させてから飲料とした。
しかし水道管はすぐに水が出なくなった。枯渇したのか閉栓されたか・・・。そんなとき、近所のお寺に脇に流れている水が井戸水ではないかという噂が流れた。不法侵入まがいの行動であるが、夜中にポリバケツを持ってその水を汲みに行ってきた。これで飲み水も確保出来る・・・。しかしながら、その水は、実際にはどぶ川の支流であったようだが、当時は有り難がって煮沸して飲み水としていた。よく食中毒などにならなかったと思う。
昼夜の区別無く震度5クラスの余震が続く。次揺れたら全壊するかも、もうダメかも。揺れるたびに恐怖に震える。浅い眠りについても、余震のたびに目が覚める。情報はほとんど無い。恐らく当事者の震災被害の者より、外部からニュースを見ている者のほうが情報に詳しかったと思う。情報を得る手段はたまたま壊れていなかった小さなAMトランジスタラジオだけ。それも電池の予備がないため節約のためにあまり長い時間はつけていられない。
雨が降ると、瓦が落ちてしまった屋根からどんどん雨がもってくる。雨に濡れない場所に身を寄せ合って家族と眠る。もちろん雨水は貴重な資源。雨が降るとそれをポリバケツに溜め、風呂桶に溜めた。
ロウソクと、七輪と、どぶ川。この三つがなかったら、もっと苦しい被災生活であったと思う。そのお陰で、何とか避難所に行かなくてすんだのだ・・・。
震災では最終的に6000人以上の方が無くなった・・・。
三陸沖の地震の報道を見て、苦しかった記憶がよみがえる。今回は津波の被害が甚大であるという。被災した方にはお見舞いを言いたい。多分、苦しい生活が、何ヶ月も、もしかしたら何年も続くことになるかも知れない。
がんばって。
それしか言えない。
がんばって。
本当はこんな陳腐な言葉は言いたくない。
でも、それ以外に皆さんを勇気づける言葉が見つからない。自分の語彙の少なさを呪う。
がんばって。
苦しいことばっかりになってしまうと思うけど。
がんばって。
炊き出しや、食料や水の配給や、ボランティアさんの温かさに生かされると思う。
がんばって。
元の生活に戻れるには長い月日がかかるけど、くじけずに日々を生きて。
がんばって。
言葉なんかいらない。分かってる。必要なのは、今すぐに仮設住宅、水、電気、ガス、安否の確認。もしかしたら、ろうそく一本、紙の皿一枚、電池一本、そんなものでもいい。うわべだけの言葉なんていらない。千羽鶴や寄せ書きはもっといらない。分かってる。それでもこれしか言えない。
がんばって。
がんばって。
がんばって。