Cafe Ligia-exotica / 純喫茶 船虫

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短い 読書感想文 『グッドラック 戦闘妖精・雪風』 神林長平 著 を読んだ


グッドラック 戦闘妖精・雪風



おもしろい!


文章量、情報量、そして文章が帯びる熱量・・・。



人と人とのつながり、人と機械とのつながり。



人工知能



機械的思考。




未知の異星体。



神。



人間の思考。あくまでファジーな。



未知のものへのコミュニケーション。そして、人としての周囲へのコミュニケーション。






 ジェイムズ・P・ホーガンは『星を継ぐもの』シリーズ(特に『ガニメデの優しい巨人』)で、全く未知の異星体とコミュニケーションが可能であることを前提にストーリーを読者に見せていった。
 アーサー・C・クラークは『幼年期の終わり』で、地球人類に未知の異星体を“理解”させるのに数世紀もの年月をストーリーの中で経過させる。それでも人類は異星体とのコミュニケーションを果たし、理解する。
 ただし、前者は双方が好戦的ではないことが前提で、後者は予め訪問者である未知の異星体が地球人類を研究し尽くしているという条件での話である。

 では『戦闘妖精・雪風』シリーズではどうか。地球人類は30年前に、南極上空にいきなり現れた紡錘状の物体内から突如飛来した未知の飛行物体(攻撃機)から侵略を受ける。紡錘状のものは異次元空間へのトンネルであり、未知の攻撃機から制空権を奪い返した人類はその“トンネル”を抜け、反撃を開始する。トンネルの向こうは全く未知の星、通称“フェアリィ星”だった。人類はフェアリィ星に前線基地を築き地球への侵略を防ぎながら抗戦を続けてきたが、30年間で異星体の情報は何一つ得ることが出来ていなかった。姿も形も、科学レベルも、行動原理も、常識も・・・。異星体はジャムというコードネームが定着してそう呼ばれているが、人類は誰一人としてジャムに接触することが出来ず、また、理解することすら出来ずにいた・・・。


 物語の中でジャムは、当初戦闘機を操作している人間に興味を示さない。人間よりも、戦闘機に搭載されている戦術(および戦略)コンピュータこそが驚異であるという風に行動する。操縦者は不要な有機物体に過ぎない。ジャムには人間の存在自体が“理解できない”し、地球人類は“人類を理解できないようであるジャム”を理解できない。


 人類の常識は異星体の常識ではないし、異星体の常識は人類には理解できない。異星人に接触した人類は、果たしてコミュニケーションを取ることが出来るのか?


 この物語の中において、登場人物達の導き出した答え。“戦わなければ生存競争に負ける”・・・。


 ただ、上記したようなものがこの物語の本質ではない。それは、自己に対する他者であったり、人の感情であったり(“アイデンティティ”という表現が妥当なのかどうか?)。




 しかし面白い。良作だ。もちろんこの作品を楽しむ前提として、前作の『戦闘妖精・雪風』(もしくは<改>)を読了しておかなければならないが。

 もちろん突っ込むべき所もあるけれど。登場人物達が沈黙してしまうような場面で、本当に『沈黙。』と書いてしまうし。それは作家としてどうなの?とかも思っちゃったりするんだけれど、物語の面白さはそんな些末なツッコミどころなど簡単に凌駕してくる。



 『マルドゥック・スクランブル』の最終巻の熱量に似ている、なんて思ってしまったが、こちらの熱量は、もっと、黒く、硬い。



 と云うわけで、シリーズ三巻目の、『アンブロークンアロー 戦闘妖精・雪風』にとりかかろう。



 追記
 ハリウッドは、本当に『戦闘妖精・雪風』を2時間くらいの映画にしたいのかな?どう考えても“???”。単なるSFアクション映画になるなら、やらない方が良いと・・・。
 多分。本当に主人公をトム・クルーズでやる気なの?うーん・・・。