Cafe Ligia-exotica / 純喫茶 船虫

よしなしごとを。読書とか映画とか観劇と港の街の話しとか

ソロモンの指輪

 知人のブログで犬のことに触れられていたので、ふと、『犬好きな自分』というものを改めて思い出してしまったような気がした。犬との記憶について書く。

物心ついたころから実家では犬を飼っていて、犬たちと一緒に成長してきたように思う。子供の頃は何だか今よりも犬ともっと、ずっと、上手に会話していたように思う。本気で犬たちと会話していた。

 実家で犬を飼わなくなって久しいせいか、それとも腐りきった大人になったせいなのか、なんだか犬と以前ほど会話できなくなってしまった気がする。

 犬たちは語彙は少ないし、名詞は理解できていないだろうが、こちらの言うことを解らないなりに真剣に聞いてくれる。そして真剣に返答してくれる。
それは『うん』とか『そう』とか『いや』とかきわめて単純な返答であるけれどもその単純な中に実に多彩な返事を持っている。単純な中にたくさんの感情をこめる。

 犬に愚痴ると、『よくはわからんけど、落ち込むなよ』と言うし、楽しいことを言うと、『そうか、よかったな』といってくれる。というか、くれていた。
「犬はコミュニケーションが普通に取れるもの」だと思って子供のころは暮らしていたと思う(犬や猫を飼ったことがない人にはどうも理解できないようだが、彼らは人間の言っていることを理解できるし、意外に彼らの言うことは理解できるものなのだ)。


 いつからだろう?なんだか彼らに気持ちが伝わらなくなったような気がしてきたのは。彼らの言いたいことは相変わらずわかるような気がするのだが、彼らにこちらの『言葉』が伝わらなくなっているような気がする。なぜだ?

 子供のときと変わらず犬のことは好きだ。彼らの言っていることも判る感じだ。例えば町で散歩中の犬に遭遇したりする。以前は『あ、知らない人間(の子供)だ。遊ぶか?』と言ってすぐに遊んでくれたが、最近は『あ、知らない人間だ。警戒せねば・・・!』という感情を持たれてしまう。こちらの接し方が変わったわけではないと思うのだが。

 犬たちと会話のできない腐れた大人に成長してしまったのだろうか・・・。もう一度彼らと心を通わすことのできる日が来るのだろうか・・・。彼らがくれる無償の優しさに触れていると、ヒトも優しい気持ちになるのだ・・・。彼らの優しい『言葉』を、そしてこちらの『言葉』を、・・・。