Cafe Ligia-exotica / 純喫茶 船虫

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行き当たりばったりレポート2 / 三宮神社

 いらっしゃいませ。


 リーゼント風の髪型のY岡さんて人が、やたらと牛の脳みそだとか羊の脳みそだとかを食べろ食べろって勧めてくるんですよねえ・・・。




 彼は繁華街を歩いていて、小さな神社が目にとまったので適当に写真に納めてきたらしい。





「まあ、ちゃらっと写真を載せればネタ不足を解消出来るかなと思って、軽い気持ちで撮ってきたわけなんだけどね」







軽いな。






「まあ、記事らしい体裁を整えようと一応どんな神社なのかなあなんて、あとでwikipediaとかで調べてみるんだけどね。なんだか色々あって結構面倒くさい事になりそうな・・・」







・・・。






「まず、今回写真に撮ってきたのは神戸市中央区の繁華街の真ん中にある、“三宮神社”。JR元町駅が近いかな?」







ふむ。






「神戸大丸の本館建物の東北の角のすぐ目の前にある小さな神社だ」






ほう・・・。





「鳥居も社殿も比較的新しい。なので、ちょっと歴史的な物を調べるのも楽かなと思ったんだけどね」






ふむ。






「神社の由来を書いた看板」









ふむ。良くあるヤツだな。






「看板によると、元々この辺りは30〜40件ほどの寒村であったけど、神戸港が開港してから急速に発展し、明治の頃に地名をこの神社の名前である三宮としたんだそうな」






ふむ。







「で、wikipediaによると、生田神社の八柱の裔神を祭った一宮から八宮までの神社(生田裔神八社)の中の三柱目に当たる湍津姫命(たきつひめのみこと)を祭った神社、であることから三宮神社というんだそうな」






まあ、そちらのほうの記事も読んでもらいたい。


リンクを貼っておきます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%AE%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE







「なので、当然一宮神社から八宮神社まであるわけで。全部まわると縁起が良いらしいですよ。まわらないけど」







相変わらずいい加減だな。





「南側の鳥居から、中へ入ってみる」





ふむ。





「社殿の前に狛犬が居ないと思ったら、建物の中に狛犬が」








ほう。






「社殿の中にもう一つ社殿がある感じなのかな?これも看板に書いてあったんだけど、何度もあちこちに移築しているらしい。なので、もしかしたら元々の場所とは全く違った場所に現在は建っているのかも知れない」






ふむ。







「敷地内に、明治時代の大砲の復元した物が置かれているという話を、あとになって知った。写真を撮っているときには全然気がつかなかった。もっと大々的に展示して下さい、そういう物は」






まず、気づけ。






「先に書いた、一宮神社から八宮神社までの交通手段と所在が書いてある看板。これは親切。まわらないけど」






・・・。






「さて、ある意味ここからが本題。先の神社由来の看板は正面の鳥居の東側にあったんだけど、鳥居の西側にはこんな看板があった」







神戸事件・・・?






『神戸事件』

wikipediaに記事がありましたのでリンクを貼っておきます。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%88%B8%E4%BA%8B%E4%BB%B6







「詳細はwikipediaで読んでもらった方が詳しいと思うが、簡単にあらましだけ書いておこう。

 明治政府が起こり、戊辰戦争が始まってすぐの1868年、徳川方の勢力である尼崎藩を牽制するため、新政府は備前藩に摂津西宮の警備を命じた。

 備前(岡山)から、摂津西宮への行軍中、神戸の三宮神社の前で事件は起こる。付近の建物から出てきたフランス人水兵二名が行軍の列を横切ろうとした。いくら新政府になろうとも、行軍しているのは侍である。行軍を妨げられるなどということは極めて無礼をはたらかれているものということで、水兵を槍で切りつけ軽傷を負わせてしまう。

 これを見ていたフランス人水兵達は拳銃を持ち出し、そのために銃撃戦に発展してしまう。この小競り合いが、神戸港の外国人居留予定地を検分に来ていたヨーロッパ諸外国公使に一斉射撃を向けてしまう事に発展してしまう。

 この事件は外交問題へと発展してしまうが、新政府は諸外国の外交官が見守る中、最初に槍を持って二名を水兵を制止した滝善三郎正信を切腹させるということで事態を収める。


 これが『神戸事件』の大まかなあらましである。当時の欧米の外交官達に、切腹という名の“名誉ある公開自殺”は果たしてどのように写っただろうか・・・」






・・・。






「こうした大名行列的な物と、欧米人の接触によるトラブルは、幕末から明治にかけて、頻繁に起こっている。特に、幕末に起こった『生麦事件』は有名」







日本史の教科書にも載っているな。






「これはイギリス人が東海道薩摩藩大名行列に突っ込んで、藩主の島津久光の駕籠にまで接近しちゃったので斬り殺されてしまった事件だね。これにより、幕府はイギリスに弱みを握られ、攘夷派は、外敵を打つべしという気運をさらに強める」







ふむ。







「ここで取り上げた『神戸事件』は、すでに新政府が起こってからの話しなので、備前藩vsフランスという形ではなく、起ちあがったばかりの新政府vs欧米列強という幕末と違った形の外交問題になってしまっているのがポイント。下手をすれば国全体が瓦解しかねないという、新政府が動き出してからの、初めての外交問題であったという事だ」







ふむふむ。







「それが、現場にいた実行犯(?)一人の公開処刑という形での決着は、明治新政府にとっては大変ラッキーな結末であったと思われる・・・」







なるほど・・・。






「さて、この神戸事件の原因の一つとして、備前藩が進行する際に、ごくごく普通に当時の西国街道を東進していたというところに問題があったらしい」







ほう・・・。





「幕末、徳川幕府神戸港の開港により、外国人が港近辺に多数居住を始めたため、トラブルを避けるために西国街道を大きく北へ分岐させた別ルートを新たに作らせた。この道は『徳川道』といわれていて、西は明石市大蔵谷近辺から六甲山系を抜けて、東は神戸市東灘区石屋川まで抜ける神戸の港町を大きく迂回する道であったとか」






ほほう。






「神戸界隈でのトラブルを避けるためには、徳川道を進行した方が正解だったかもだね・・・。ただ、かなりな回り道になってしまうのも確かなんだけど」






ふうむ。







「で、ここで以前に書いた記事に偶然にもリンクするんだけど、先頃記事のネタ探しに神戸市東灘区の“神戸市立御影公会堂”を見に行くために阪神石屋川駅を訪れたばかり!先に書いたとおり、石屋川は徳川道の、東の起点なんだ!」

http://d.hatena.ne.jp/aile_strike/20110517

http://d.hatena.ne.jp/aile_strike/20110518





おお。






「で、その時たまたま見つけたけど御影公会堂の回には使わなかった写真がこれ!」






おお、徳川道起点に関する看板が・・・!






「偶然てスゲー!いやあ、何でも撮っておくもんだねえ・・・」







なるほどねえ・・・。


ちょっと神社の写真をアップするだけのつもりが、ずいぶんと長くなってしまったな。

これからもサボらずに、目についた物は撮影しておくように。


今回はこの辺りで終わる。